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年代だけでも覚えて!日本史を変えた三世一身の法と墾田永年私財法

 奈良時代、日本では「三世一身の法」と「墾田永年私財法」という、2つの法令が出来ました。

 この2つの法律は、とても重要です。何しろ日本の歴史を千年以上も左右した法律だからです。

 こういうと「日本史にはあまり興味がない」という人もいるかもしれません。

 しかし、学習塾としてはそんな方であっても「三世一身の法」と「墾田永年私財法」が制定された年代だけは、覚えてほしいです。

 特に高校の授業や大学受験の科目選択で日本史を選んだ皆さん!この2つの法律が出来た年代は大学入試に出やすいので、お願いします!

日本の歴史を大きく変えた!奈良時代の重要な法律

 701年に「大宝律令」が定められた後、日本では「公地公民制」と言って田(水田)は全て国家のものとなりました。

 その代わり、国家がすべての国民に平等に田を分配します。もともと国家のものですから、死んだらその田は国が回収します。これを「班田収授法」と言います。

 「三世一身の法」と「墾田永年私財法」は、簡単に言うと条件を満たせば誰でも水田を自分の土地にできるという制度です。

 これまでは田は国家のものでしたから、これだけでも日本の歴史が大きく変わったことがわかると思います。が、後で述べるようにこの法律の影響はそれだけではありません。

 その前に、この二つの法律の概要を簡単に説明しますね。

 「三世一身の法」は、これまであった用水路等を利用して作った田は自分の土地にできる、さらに用水路等も含めて一から開墾した田は曾孫の代まで自分の土地にできるという内容でした。

 そして「墾田永年私財法」は自分で開墾した田は子孫代々永遠に自分の土地にできるという法律です。

 しかし、この二つの法律がテストに出やすいのは内容が重要なのはもちろん、法律ができた年代に理由があります。

大学受験で差がつく!まずは年代だけでも覚えてください

 「三世一身の法」が制定されたのは養老7年、西暦にすると723年です。

 対して、「墾田永年私財法」が制定されたのは天平15年で、西暦にすると743年です。

 そう、実はこの二つの法律はちょうど20年差で制定されているのです。

 こういう年代は覚えやすい半面、テストや試験にはとても出やすいですから、覚えてくださいね!

 この塾の講師には、大学受験当日の朝にたまたまこの2つの年代を確認するとそれが試験に出たという体験の持ち主もいます。

なぜ三世一身の法が必要になったの?

 では、この2つの法律はどうして制定されたのでしょうか?

 まずは「三世一身の法」から見ていきましょう。この法律が出来たのは「班田収授法」と関係があります。

 「班田収授法」では政府がすべての水田を所有する代わりに、その水田をすべての国民に分配していました。

 これは中国の「均田制」という制度を真似したものですが、同じ時代の中国は田だけでなく畑の支給の場合もあり、しかも女性や奴隷には分配しなかった一方、日本は田だけで全て支給することに決めた上に、女性や奴隷も含めた全国民に田を分配しようとしたことに特徴があります。

 これにより国民の生活は安定し、人口は少しずつ増えていきました。しかし、それを受けて政府はあることに気づきます。

「うん?このまま人口が増えると田んぼが足りなくなるのでは?」

 そこで政府は田を増やすためにこんな命令を出しました。

「新しく水田をたくさん作ってくれた人には、勲章を与えます!」

 しかし、この命令は効果が上がりませんでした。多くの庶民にとって「勲章?そんなもん、興味ないわ」という感じだったのでしょう。

 そこで、条件付きとはいえ、土地を自分のものにできる「三世一身の法」を制定することにしたのです。

 多くの国民にとって、自分の土地が手に入るのは勲章よりもありがたいことです。この法律は一定の効果を上げました。

 また、曾孫の代になるとこの土地は国家のものになるので、国家全体にとってもメリットがありました。

藤原仲麻呂が墾田永年私財法を制定した「裏事情」

 ところがその20年後、開墾した田は永遠に自分とその子孫のものにできるという内容の「墾田永年私財法」が制定されました。

 永遠に自分のものになるということは、もういくら開墾しても国家のものにはならない、ということです。国家の所有する田がこれにより増えなくなってしまったのです。

 国家の所有する田が増えないということは、人口が増えているのに国民に分配する田は増えないということにもつながります。つまり「班田収授法」が機能しなくなるのです。

 この法律の制定を主導したのは藤原仲麻呂という政治家です。彼がこの法律を制定した表向きの理由は「開墾の意欲を上げるため」でした。

 「三世一身の法」では開墾した田を自分のものに出来ますが、自分の死後ではあるもののいつかは国家に没収されます。それを永遠に自分とその子孫のものにした方が開墾の意欲は上がる、というわけです。

 しかし、実はこの法律には重大な但し書きがありました。それは身分によって所有できる水田の面積に差があるというものです。

 そう、この法律の本当の目的は貴族階級が土地を独占することにあったのです。

 昔は「墾田永年私財法」は良い法律であるという風に考えられていましたが、最近では教科書でもこの法律により格差が拡大したといった負の側面にも触れられています。

称徳天皇による墾田永年私財法停止と光仁天皇による復活

 「墾田永年私財法」の制定により格差が拡大したため、奈良時代の日本では人々の不満が高まり、それが反乱や反乱未遂に繋がりました。

 例えば、橘奈良麻呂という人が起こした大規模な反乱計画(橘奈良麻呂の乱)では「人々の生活が苦しい中で奈良の大仏を作ることにお金をかけている」ことが反乱の理由にあげられていました。

 その中、遂に孝謙上皇(奈良の大仏で有名な聖武天皇の娘)が藤原仲麻呂を討伐して新たに天皇(称徳天皇)に即位する事件(藤原仲麻呂の乱)が起きます。

 称徳天皇は「墾田永年私財法」の停止や奴隷解放を推進し、格差の是正に努めました。

 しかし、称徳天皇の死後に光仁天皇が即位すると再び「墾田永年私財法」が復活しました。そして、貴族への土地の集中が始まりました。

 「墾田永年私財法」を法的根拠として貴族が集めた土地を荘園と言います。

 この荘園は永遠に自分とその子孫のものに出来る土地です。このシステムのお蔭で、貴族たちは何百年も荘園を所有し、この国の支配者として君臨しました。

 実は、貴族たちが荘園を失うのは豊臣秀吉が太閤検地を行った時の話となります。言い換えると、室町時代まで「墾田永年私財法」の影響が続いていたのです。

 「三世一身の法」と「墾田永年私財法」が歴史に与えた影響を覚えたら、次は太閤検地の意義も覚えてみてはどうでしょうか?

 

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